2011/11/06

ロボットがつくりだす退屈な日常

Chasing stars to lose our shadow

牛とロボットと怠け者」と題して、学習による自動反応についてエントリーしました。

私たちのまわりには、「決まっている」ことが多くあります。しかしそれは「決まっていると思ってる」ことです。
ロボットや牛に任せっきりで意識を払い直すことをしなければ、すでに花はむしり取られているかもしれないのです。
「牛とロボットと怠け者」-Dog'sDocs

自分の中のロボットの存在に気づくこと、そしてその対象に意識を払い直すことが必要と考えるわけです。
しかし、ロボットを使うことは悪いことではありません。


つまり、「ロボット」が人間に備わっているわけは、人間の自由を拡大するためにほかならない。via:「ロボット」心理学

日々の膨大な作業をいちいち意識して動作するということはむしろ不可能でしょう。
意識しなくても「こなせる」ような仕組みが、わたしたちには自然と備わっているわけです。

はじめての作業には苦痛が伴うものですが、やがてその作業にも慣れると意識せずとも「こなせる」ようになります。
その作業用の「ロボット」が育ったというわけです。

たとえば車を運転するのはどうでしょうか。
アクセル、ブレーキをタイミングよく踏むとか、ハンドルを切って曲がるとかそういった基本的な動作ができてこそ、縦列駐車もできるようになるでしょう。

ハンドルやブレーキをタイミングよく操作するロボットがいてこそ、より高いレベルへと進むことができるわけです。

ここで、ロボットの問題となるのはその副作用のほうです。
ひとつは「日常が退屈なものと感じてしまう」こと、もうひとつは「変化への対応が遅れる」ことです。

「ロボット」を使いこなすのが得意な人ほど、一歩間違うと人生は、「徐々に楽しみが失われる」ばかり、たまに「はっとする」のは「危険なことがあったとき」のみ、ということになりかねない。ひとことで要約するなら、人生とは、退屈プラス危険。ゼロとマイナスだけで成り立っている。via:「ロボット」心理学

ロボットが育ったあとで、初めて接したときのような喜びを感じることは難しいでしょう。その対象に「飽きた」状態になるわけです。
「何かおもしろいことはないか」とか「あたらしい出会いが欲しい」とか、「今までにないあたらしさ」を求めたくなるのです。

しかしながら、その飽きてしまった対象もはじめて接したときには「あたらしかった」はずなのです。そう考えると、今後手に入れるであろう「あたらしさ」もいずれ飽きるだろうということは想像がつきます。
わたしたちは、いつかは飽きてしまうとわかっていながら、永久に「あたらしさ」を追いかけ、求め続けているわけです。

この副作用への対処もやはり「意識を払い直す」ことにあります。

日本には書道や茶道など、その立居や振る舞いに気を配るものが多くあります。
これらは、ともするとロボットがこなしてしまう動作に改めて気を配ることで「退屈な日常を特別なものにする」先人の工夫なのかもしれません。

長くなるので「変化への対応が遅れる」ことの問題については、また改めてエントリーしたいと思います。

問題なのは、「ロボット」とご主人の間のコミュニケーションがまるでかみ合っていない点なのである。
(中略)
こういうことになるのは、「ロボット」が「自分の内部」で仕事をしている事実を忘れてしまっているからである。via:「ロボット」心理学