学習による自動反応については以前にもエントリーしました。
「頭の手綱をつかむ」
「自分のなかで何が満たされたのかさぐる」
しかし、やはり興味のあることは気にしていないようでも目に入ってきてしまうものです。
たとえば、最近読んだ『「ロボット」心理学』では次のように書かれています。
コリン・ウィルソンによれば人間の非常にユニークな特徴の一つとして、「ロボットを使う」、それどころか「ロボットになってしまう」ということが挙げられる。「ロボット」という言葉によって彼が指している意味は、つまるところ人間の学習能力のことなのである。
(中略)
人間の脳は、注意力や自意識を「節約する方向」に力を注いでいるのだ。そしてそれこそが、「ロボット」の目的なのである。人間の脳は「未知でしかも重要な」ことのみに注意を払うようにできている。そういったものは、生存を危機にさらす可能性が高いからである。もしも脳が「重要ではない」と判断すれば、それにはもう注意は払われない。たとえ重要ではあっても、「知っている」事柄は「かつてのやり方」が適用されるだけである。言うまでもなく、これが「ロボット」である。
「 始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ」では、その自動化するプロセスを牛を用いて説明し、瞑想によって頭が勝手に動く様子を観察することを奨めています。
人間の「思考」はさまざまな「欲」で動いていますが、その欲で動いている「思考」を「牛(欲牛)」にたとえて分かりやく説明してみます。あれこれ考えてくれている自分の「思考(頭)」を「牛(欲牛)」に見立てて、十段階に順に並べると次のようになります。
1 もともと主人に従順な楽しい牛がいる。
(主人=自分、牛=思考する”頭”)
↓
2 牛は物を覚えていく。
(”頭”は学習して、それをプログラム化する)
↓
3 次第に牛が勝手に動くようになっていく。
(”頭”は獲得したプログラムに従って一人歩きを始める)
↓
4 すると主人が不要になる。
(自分の本位と関係なく、”頭”は勝手に思考するようになってしまう)
↓
5 自分の人生が自分の人生でなくなる不幸の始まり。
(自分の本意に反した思考や行動をとるようになってしまう)
↓
6 そこで主人に返り咲くための工夫をする。
(”頭”を自分の本意に従わせる作業)
↓
7 牛を注意深く見張って勝手に動かさないようにする。
(”頭”が勝手に動く様子を観察する<観照>)
↓
8 今は不要となったプログラムは捨てる。
(現在の自分の本位で判断できるようにする<再解釈>)
↓
9 するともともとの楽しい牛に戻る。
(自分に従順な本来の”頭”に戻る)
↓
10 牛も自分も天国に居る至福を味わえる。
(自分も”頭”も同じ幸福感に浸れる)
つまり、「牛」=「頭(思考)」は本来の自分ではないのですが、いつの間にか、同化してしまっています。
どちらも同じテーマについて述べていますし、その解決も手段は違えど再び自意識的になること、つまり意識を払い直すことをすすめているわけです。
全てとは言わないまでも、なるべく行動を自意識下に置こうとすることにはやはり意味があります。そうすることによって、「そもそも何のためにそうするのか」といった再考が促されるからです。自分にインストールされたプログラムを見直す機会と言えるでしょう。
頭が自動反応する瞬間というのは、意識するとよく見受けられるものです。
「残業が多いから人を増やそう」とか「ミスがあったからチェック体制を増やそう」とか、それ自体が悪いわけではありませんが、問題の本質にせまることなく自動反応した結果「かつてのやり方」を適用することには疑問があるのです。
NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」にこんなシーンがあります。
幼少の政宗(梵天丸)に師の虎哉和尚が桔梗の花を取り出して「この花の色は何色か」と問います。「紫色でございます」と答える政宗に和尚は目を閉じるように言います。そうして和尚は桔梗の花をむしり取り「ではもう一度たずねる。この花の色は何色か」と問います。
時宗丸(後の伊達成実)が「紫色じゃ。桔梗の花は紫と決まっておる」と答えると「この怠け者めが!花も見ずしてなぜ紫と答えたっ!」と怒鳴りつけたのです。
私たちのまわりには、「決まっている」ことが多くあります。しかしそれは「決まっていると思ってる」ことです。
ロボットや牛に任せっきりで意識を払い直すことをしなければ、すでに花はむしり取られているかもしれないのです。